Chisachi Blog

カイエ、もしくはスクラップ・ブック

『ザ・スクエア』

第70回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞したリューベン・オストルンド監督作品
『ザ・スクエア 思いやりの聖域』についての短評。ネタバレあり。
以下、簡単に作品情報を掲載する。いずれも日本版公式サイトからの引用。

予告編

あらすじ

クリスティアンは現代美術館のキュレーター。洗練されたファッションに身を包み、バツイチだが2人の愛すべき娘を持ち、そのキャリアは順風満帆のように見えた。彼は次の展覧会で「ザ・スクエア」という地面に正方形を描いた作品を展示すると発表する。その中では「すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」という「思いやりの聖域」をテーマにした参加型アートで、現代社会に蔓延るエゴイズムや貧富の格差に一石を投じる狙いがあった。ある日、携帯と財布を盗まれてしまったクリスティアンは、GPS機能を使って犯人の住むマンションを突き止めると、全戸に脅迫めいたビラを配って犯人を炙り出そうとする。その甲斐あって、数日経つと無事に盗まれた物は手元に戻ってきた。彼は深く安堵する。一方、やり手のPR会社は、お披露目間近の「ザ・スクエア」について、画期的なプロモーションを持ちかける。それは、作品のコンセプトと真逆のメッセージを流し、わざと炎上させて、情報を拡散させるという手法だった。その目論見は見事に成功するが、世間の怒りはクリスティアンの予想をはるかに超え、皮肉な事に「ザ・スクエア」は彼の社会的地位を脅かす存在となっていく……。

信頼と思いやりの領域

『ザ・スクエア』は現代美術のありがちな場面を皮肉たっぷりに描いている。
例えば序盤に次のような場面がある。

キュレーターであるクリスティアンは(おそらくは展示のオープニングイベントか何かで)劇中作品の「ザ・スクエア」について、ニコラ・ブリオー『関係性の美学』をベースにした作品だと説明しようとするが、突如理論の話を中断し、カジュアルな言葉で場の空気を掴む。
まるでお堅い理論の話はしようと思えばできたとでも言いたげだが、実は『関係性の美学』への言及を早い段階で切り上げることまで事前にトイレの中でリハーサルしている。キュレーターの言葉は往々にして衒学的なパフォーマンスでしかないというギャグなのだ。クリスティアンは『関係性の美学』について語れない。

それでも、大きな美術館のキュレーターには権威がある。クリスティアンのスピーチを行儀よく聞いていた聴衆はその直後のシェフの話―料理の説明はまったく聞こうとしない。キュレーターはキュレーター様だが、料理人は所詮料理人であり、今後のビジネスに影響しないどうでもいい存在としてコントラストされる。そして人々の素朴な差別意識が本作のテーマとして何度も反復される。クリスティアンが代表するエリート男性の自意識は物乞いやアメリカ人女性ジャーナリスト、ゴリラのマネをするパフォーマーらを舐めている。

「権力はセクシーだと認めろ」

劇中でクリスティアンの信条を表す印象的な台詞である。いくら反芸術や反体制(政権)を謳っていても美術/芸術は結局のところ権力ゲームの一部であり、本当に弱い立場の人にとっての救いにはならない。むしろ反体制的な言説によって自己満足している段階では、芸術作品は弱者をさらに傷つけるものだということを『ザ・スクエア』は描いていく。

劇中作品の「ザ・スクエア」は思いやりの聖域であるが、言ってしまえばそれはリベラルごっこの領域でしかない。クリスティアンが傷つけた人物はそのことを示すように画面(劇中作品ではなく映画としての『ザ・スクエア』)からも追いやられていく。ここでいう弱者とは例えば時間の使い方などを自分でコントロールする余裕を持たない人々のことだ。クリスティアンが謝罪しようと思った時点では遅すぎた。開き直るよりはいくらかマシだが、謝罪するかしないかを選択できる立場にあったことそれ自体に目を向けなければならない。

はたして行政が設置したものだけが「排除アート」なのだろうか?映画を見ている「わたしたち」が見ようとしていないものはなんなのか?そしてこのような問いすら自己追認のためのリベラルごっこアピールとして回収されてしまうのか?まぁそういうことを考えながら見ると面白いだろう。

風沢そらと 姫里マリアが 恋をする理由「妖精対風沢そら」

*この物語はアイカツ!第68話「花咲くオーロラプリンセス」のプロットを元にした二次創作小説です。
是非エピソードをご覧になった後お読みください。

人物紹介

グリーン・グラス
ブランド「オーロラファンタジー」デザイナーを務める柊リサ、柊エレナの双子姉妹。
元絵本作家であり、オーロラファンタジーのドレスも絵本から出てきた妖精のような世界観である。
極度の人見知り、筆不精。

風沢そら
ドリームアカデミーに通うアイドル兼ブランド「ボヘミアンスカイ」デザイナー。
セクシータイプ。自由な生き方に憧れている。

姫里マリア
ドリームアカデミーに通うアイドル。キュートタイプ。
高原で育ったお嬢様でおもてなしの心を大切にしている。

■風沢そら

 デイジーが手の中で静かに香っている。
 少し前までお弁当屋さんの隅に咲いていた花はあたたかい想いに包まれている。
 わたしはそれが消えてしまわないようにと怯えながら指先の神経を意識する。
 わたしは大切なものを届けなくてはならない。

 今日、マリアの手に触れたのは二度目だった。
 朝にガーデンでネイルを塗ってもらった時とついさっき、デイジーを受けとった時。

 わたしの手と違ってマリアの手は柔らかくて、握ると崩れてしまいそう。
 崩れるのが怖くて手を握り合ったりしない。
 それは多分どこかでマリアもそう思っている。
 手を握ること自体には意味があり過ぎる。
 それはわたしたちにとっては束縛に近い行為。
 そしてその先も。

 …だからわたしとマリアの間にはいつも何か別の意味が介在している。
 たとえばネイルの手入れであったり、デイジーの花であったり、そういう具合に。

 ドリームアカデミーは海に面した開放的で都会的なところにある。いちごちゃん達のスターライト学園が森のなかの由緒あるお嬢様学校なのと比べれば対照的。最新のテクノロジーによって支えられた設備は学び舎として最高に近い環境だと思う。設立されて日は浅いけれどアイドルコース、プロデューサーコース、デザイナーコースそれぞれ実績を出し始めている…って言ってもいいはず。わたしがボヘミアンスカイというブランドを立ち上げたのも夢咲ティアラ学園長の強い後押しがあったからだし、決してわたしひとりの成果じゃない。きいがセイラのプロデューサーもしていることや、セイラがロックなアイドルとして注目されているのもドリームアカデミーの特色を生かしたもの、もうひとつのアイドル活動。そしてマリア。セイラときいがデビューする前は、わたしとマリアだけで一緒にアイカツすることが多かった。わたしとマリアはドリームアカデミーが急躍進する一連のキャンペーンの、最初の中心的存在だった。つまりは看板アイドル。

 ドリームアカデミーには他にも魅力的なアイドルが多く在籍していたけれど、わたしがそういう役割を貰ったのはたまたまだったと思う。わたしは手先はともかく立ち振る舞いについては器用な方ではないし、なるべく自由にありたいと思ってる。周りの人はわたしについて個性的な印象を持ってくれているみたいだけど、わたし自身のことはよくわからなくて、いつも決定的な言葉をくれるのはティアラ学園長だった。神崎美月さんがドリームアカデミーのアドバイザーをしてくれていた時も、わたしを方向付けてくれるのはティアラ学園長だったと思う。わたしはいつも迷うけれど、少しあとでやっぱり光栄だなって感じることが多かった。

 マリアと最初に会ったとき、わたしはどうしてこの子がドリームアカデミーにいるんだろうって不思議だった。マリアはお嬢様系アイドルとしてはほとんど完璧で、どちらかというとスターライト学園にいそうなタイプだと思った。あとでわかったことだけれど、高原で育ったマリアは意外に体力もあって、スターライトの試験がとても難しいと言われていても、受けて落ちるような子じゃない。わたしは姫里マリアっていう子が、もしかしたらわたしと似ているのかと思っていろいろ聞いてみた。そしてわかったのは、マリアは試験を受けてアイドルになったわけではないってこと、ティアラ学園長が山でスカウトしてきた子だってことだった。マリアは面白そうと言ってそのスカウトを受けたみたい。わたしは、わたしの誤魔化してきた何かを刺激されるような気がした。ティアラ学園長はいつも突飛なことを言う。でもそう聞こえるほどには思いつきで言ってるわけじゃないってことも知ってる。そして、わたしを後押しするティアラ学園長の言葉と、マリアをスカウトした言葉は少し違うものだっていうことも、なんとなくわかるんだ。マリアはあまり迷っていないみたい。マリアは目の前にあるもの、身の周りにあるものをちゃんと受け入れることができる子だし、その上で自分らしさも持っている。わたしとマリアは似てなんていなかった。

 マリアはわたしのことをどう思っていたのだろう。
 マリアの周りにはいろんなものが集まってくる。
 わたしもそのひとつだったのかも知れない。

 わたしは、かわいい子だなって思った。手を伸ばせば触れられるというこの距離にかわいい子が来たなと思った。そしてわたしがヘアアレンジやコーディネートすれば絶対にもっとかわいくなる。でも同時に、マリアはわたしの意図を完璧に読み取ってしまうんじゃないかって思った。わたし自身もまだ言葉にできていない些細な感情まで…。

 わたしは誰かに魔法をかけたいと思ってる。魔法っていうのはどこか謎めいた部分がなくてはダメなのに、きっとマリアには筒抜けになってしまう。そんな気がした。だからわたしはマリアにだけはあまりクルクルキャワワってすることができなかった。わたしたちがお互いを知りすぎるのはよくない。ドリームアカデミーの真の看板アイドルを傷つけてはいけない。

 どちらかというとマリアの方から声をかけてくれることが多かった。ずっと山で育ってきたマリアにとって、都会的な暮らしはわからないことだらけだったみたい。わたしも都会っ子というわけではないけれど、世界のいろんな国を巡ってきたからか、それなりに勘が働く。オフの日はふたりで出かけることもあった。マリアはコスメに興味を持ったみたいで、よくそういうお店に行った。高原を裸足で駆けるような一面もあれば、コスメに凝るような一面もあって、マリアは面白い。わたしはよく他の生徒のスタイリングについて相談を受けることがあるけれど、マリアはそういうことを言ってこない。むしろ、わたしがコスメのことをマリアに聞いたりするし、そういう時マリアはすごく嬉しそうな顔をする。マリアは、わたしの爪を塗ってくれる。ネイルは定期的なメンテナンスが必要で、マリアはいつも適切なタイミングでわたしの爪を綺麗にしてくれた。
 セイラときいがデビューして、ドリームアカデミーもようやく軌道に乗ったあたりから、わたしはマリアと一緒の現場が少なくなった。セイラやスターライト学園のいちごちゃんたちと過ごすことが多くなった。あれもティアラ学園長の采配だったのかな。

 今日、久しぶりにマリアと会った。そして爪を塗ってもらうのも久しぶりだった。

 マリアといちごちゃんはちょっと似ている。
 マリアはデイジーの花を届けてほしいと言った。
 マリアのドレスを製作しているオーロラファンタジーのデザイナー、グリーン・グラスさんに、デイジーのイメージを届けてほしいと言った。

 そしてマリアからデイジーを受け取ったとき、 今日、マリアの手に触れたのは二度目だな、と思った。

 いちごちゃん家の前で姫里の所有するヘリコプター、プリンセス・ワンに乗って屋敷へ帰るマリアたちを見送ると、そのすぐあとに別のヘリコプターがわたしを迎えに来た。プリンセス・ツーに乗ってオーロラファンタジーのトップデザイナーのところへ向かう間、わたしはずっと空を見ていた。デイジーが手の中で静かに香っている。少し前までお弁当屋さんの隅に咲いていた花はあたたかい想いに包まれている。わたしはそれが消えてしまわないようにと怯えながら指先の神経を意識する。

 わたしは大切なものを届けなくてはならない。
 マリアのイメージが託されたデイジーを、トップデザイナーの下に届けなくてはならない。

 ガラス張りのお城が見えた。まさに水晶宮だった。中は温室になっていて大きな木や花が植えられている。誰もが憧れるような、幻想的な建物。こんなところに住んでるのはきっと人間じゃない。そう思った。デザイナーたちはみんな変なところに住んでいる。ドレスのインスピレーションを得られるような、俗世間から離れたところ。空の旅が終わった。わたしはデイジーを鞄の中にそっと入れた。降りる時にローターの風で飛ばされてしまう気がしたから。

 屋敷に鍵はかかっていなかった。声をかけても反応がなかったのでそのまま入ることにした。もしトップデザイナーしかいないのなら、この建物は広すぎる。アシスタントや家政婦もいないなんて。ヘリコプターに驚いて隠れてしまったような、不穏な静けさが漂っていた。さっきまで誰かがいたような気配がそこら中にあるのに、誰も見えない。
 生い茂った植物の間をかきわけるように進んでいく。
 温室の中にはいくつものトルソーに制作中のドレスがかかっている。
 珍しい草木とトルソーが区別されていない。
 ここではわたしたちのカタチが―コルプスが―わからなくなる。確信が持てなくなる。

 季節も、昼夜の時間感覚も、この温室の中ではよくわからない。生暖かい一体感がわたしの周りを取り巻いている。
しばらく歩いても人の姿が見当たらない。わたしは本当に妖精の国へきてしまったのかと思った。ふと、ボヘミアンの人たちもここを探していたのかなって考えが過ぎった。どこでもないどこか。クスリで消えてしまわない土。

 まさか…。

なんだか調子が変かな。いつものわたしと少し違う。何か戸惑っている?何に?わたしはマリアのイメージを伝えにきた。それだけ。

「こんにちは。風沢そらさん」
「こんにちは。風沢そらさん」

 変なかたちの植物の向こうから突然、ユニゾンした声が聞こえた。あたしはそのことに少し驚いて、少し驚いたことにまた驚いた。わたしはその声の主に会いに来たのだから。わたしはなにをしているんだろう。この空間ではいまいち気配を察知しづらい。ただそれだけのはず。
「ボヘミアンスカイのデザイナーが、私たちになんの用かしら」
「ドリームアカデミーのトップアイドルが、私たちになんの用かしら」

 オーロラファンタジーのトップデザイナーであるグリーン・グラスは双子の姉妹だ。まったく同じ顔、同じ佇まい。わたしの認識の方がおかしくなってしまったのかと思うほど、その存在感は異様だった。
 グリーン・グラス―柊リサ、柊エレナの姉妹はその姿を重ねたり、また別れたりしながらわたしに近づいてくる。
 アイカツシステムを使わずに、本当の分身をやってのける。まるで、見せつけるように。

「デザイナー会議以来でしょうか、グリーン・グラスさん。まだわたしのブランドは立ち上げ前でしたがご挨拶いたしました」
「えぇ、もちろん覚えているわ。私たちがこの水晶宮から出た、数少ない外出の機会でしたもの」

 アイカツ界のデザイナーはひきこもりな人も多い。

「それにしても、本当に空からやってくるのね。ヘリコプターの音が聞こえたとき、もしかしたらって思ったのよ」

 もしかしたらって、どういう意味なんだろう。
 わたしにとって空はとても大切な言葉。わたしの名前でもあるし、ブランドの名前でもある。でもわたしは空に憧れているのであって、空にいるわけじゃない。そう、わたしはわたしのいるところを言葉にしていない。

 突然の訪問に気を悪くしてしまったかも、って思っていたけれど、グリーン・グラスというデザイナーはわたしをちゃんともてなしてくれた。

「作業の邪魔をしてしまったかもしれません」
「いいえ、そんなことないわ。それに、よく誤解されるのだけれど、私たちは人と会うことを避けているわけではないわ」
「そう。誰かの訪問はとても嬉しいことなの。ただ、場所にこだわっていないだけ」
「場所にこだわっていない?」

 よくわからないけれど、そこには明らかに自由という言葉が意識されてる。空間に対しての自由。

「私たちにとって誰かと会うということは、同じ場所にいる、ということではないの」
「波長が合うということなのよ。同じ場所にいても波長が合わなければ、それは会っていないのと同じ。波長が合えば、場所は関係ないわ」

 ”会う”と”合う”がどっちなのか混乱してくる。

「気持ちが大事ということでしょうか」
「そういうふうに言うこともできるわ」
「ねぇ、風沢そらさん」「風沢そらさん」
「妖精の国はどこにあるかご存知?」
「さぁ、妖精といえばケルト地方や北欧が思い浮かびますけど」

 オーロラファンタジーは妖精や花をモチーフにしたブランド。多分だけど、グリーン・グラスというデザイナーはデザイナーなりに、わたしにコミュニケーションをとろうとしてる。わたしのボヘミアンスカイに対してオーロラファンタジーがどういうブランドなのかって話をしようとしてるんだと思う。
 双子のデザイナーは少し表情を緩め、卓上の花に少し触れた。

「ケルトの妖精が住むのは、例えばトゥアハ・デ・ダナーンの移住した常若の国(ティル・ナ・ノーグ)などね」
「楽しき都(マグ・メル)、至福の島(イ・ラプセル)、波の下の国(ティル・フォ・スイン)…」
「山にも川にも海にも、家の中にだって、妖精は住んでるのよ」
「どこにでもいるということですか」
「そうね。そういうふうに言うこともできるわ。妖精の国、中つ国は現実の世界と常に重ねあわせられる状態でそこにあるの」
「時間の積もっているところ、かもしれないわ」

 世界にはいろんな異界観がある。少しづつ重なっているかも知れないけどきっと黄泉の国や天国とも違って、妖精の国は妖精の国としか呼べないようなあり方で成立してる。楽園、桃源郷、アアル、アルカディア、アガルタ…そういういろんな異界と、わたしの思う「自由な空」はどのように重なっているんだろう。

「つまり、グリーン・グラスさんは妖精の国にもアクセスできるから、現実世界の場所にはそれほどこだわらない、ということでしょうか」
「そういうことにしているの。私たちは妖精だってことにね」

 デザイナーにとって世界観を作りこんでインスピレーションを得ていくっていう工程はとても重要なこと。双子のデザイナーも想像力の源泉を大事にしてる。そういうことだとわたしは思った。

「W.B.イェイツによれば、ケルトの妖精たちの生き方もさまざまだわ。群れをなすシーオーク、メロウ、一人で暮らしているレプラホーン、クルラホーン、ガンコナー、ファー・ジャルグ…まぁ、妖精という言葉で括るのちょっと無理があるような気もするけど」
「妖精は、なにをするんですか」
「なんでもするわ、喧嘩もするし、愛しあったりもする。ただそこにいるだけのもいるし、悪さをするものも多い」

 なんだかすべての回答がはっきりしない。全然腑に落ちない。

「今とか、こことか、そういうものからときどきはずれたりして、みんなを驚かせるの」
「例えば、突然プレミアムドレスをプレゼントしたりね」

 そうだ。わたしはマリアのイメージを届けたくてここに来たんだ。

「そのマリアの新作プレミアムドレスのことで伺ったんです」
「そう、ちょうど今仕上げの段階にはいったところよ」
「星座プレミアムドレスの仕様になにか変更があるのかしら」
「いえ、そうじゃないんです。マリアが来れないので、その代わりにわたしが伺いました」
「フィッティングのことならば心配いらないと思うわ。結局今日までマリアさんと直にお会いすることはできなかったけれど、データは間違いなく調整してるから」

 変な話だけれど、グリーン・グラスというデザイナーはまだ会ってもいないマリアに星座プレミアムドレスを託そうとしてる。変人ばかりのアイカツ界デザイナーの中でも彼女たちは際立って特異な存在だって思う。

「でも、少し意外だったわ、風沢そらさん。あなたが来てくださるなんて」
「冴草きいさん?でしたっけ。彼女のときはこんなことしなかったでしょう?風沢そらさん」

 きいがプレミアムドレスを頼みに行ったときのことかな。
 この水晶宮にひきこもっている割に、グリーン・グラスというデザイナーは細かい事情を知っているみたい。

「マジカルトイのマルセルさんも、デザイナー会議のときにご挨拶しました。きいのマジカルトイに対する情熱も知っています。あの2人なら心配はないと感じていましたし、最終的にプレミアムドレスを託すかどうかはデザイナーとアイドルの間の関係で決めるべきだと思っているからです。わたしが何か言うことではないかなって」

 アイドルがデザイナーへアピールしプレミアムドレスを授かる。アイカツ界の常識みたいなことを今更言ってる自分がなんだかおかしい。グリーン・グラスというデザイナーは互いに少し笑みを浮かべながら質問を続ける。

「ではどうして、姫里マリアさんの場合はあなたが出てくるのかしら」
「マリアがグリーン・グラスさんに届けたいイメージがあるというのでそれを伝えにきました。マリアは屋敷でライブする予定があって、もうステージ入りしているのでここには来れなかった。だからその代わりに、ちょうど手のあいていたわたしが来たんです」

「あらあら」「あらあら」
煽っているのか、単にリズムを取ろうとしているのか、双子は互いの顔を覗きながら笑った。

「やっぱり、できることならマリアが直接来るべきだった。マリアもそう思っています」
「マリアさんが来れないことは別に問題ではないわ、わたしたちはそういったことは気にしない」
「それよりも今は風沢そらさん、あなたに興味があるのよ」
「わたしに?」
「そう」「そうなの」
「わたしはただ…」
「時間があった…それだけなら、他に時間のある人は沢山いたでしょう?」
「ドリーム・アカデミーにも、スターライト学園にもね」
「でもあなたはひとりでここへやってきた」
「まるで他の人には譲りたくなかったみたい」

 わたしに言わせたいことがあるっていう聞き方。

「時間があっただけではなく、ちょうどマリアの近くにいたから。わたしならデザインの細かいことだって伝えられるし、ひとりで十分だった。ということまで言えばいいですか」

 グリーン・グラスというデザイナーは人見知りで、会うときはひとりで尋ねなければならない、というのもデザイナー界ではよく知られたことだった。それなのになぜひとりできたのか聞くなんて。

「まぁ、そうね」「近くにいたから」「ちょうど、ね」「いいわ」
「ごめんなさい、ちょっとからかってみたかっただけなの。気を悪くしないでね」

「マリアさんが私たちに伝えたいイメージって、そうね、例えばデイジーとかかしら」

 はっとした。
 まだわたしは何も言っていないはずだった。デイジーはまだ鞄の中にある。

「どうしてそれを?」

「やっぱりそうだったのね」「別に知っていたわけじゃないわ、わかったのよ」
「わかった?」
「そう、あなたがマリアさんのイメージを伝えにきたと聞いたついさっきね。だとすればデイジーだろうって」
「たしかに、マリアはデイジーみたいな女の子だけど」
「私たちは妖精だから、そういうことは言葉を超えてわかるのよ、なんてね」
「でもきっと、マリアさんもどうしてデイジーのイメージが浮かんだのか、自分でも気づいてないでしょうね」
「妖精…」

 なんとなくわかってしまうなんて、わかり合えてしまうなんて。そんなことがあり得るなら、それは魔法って呼ぶしかない。そんな気がする。

 わたしはいちごちゃんの家から運んできたデイジーをグリーン・グラスというデザイナーへ渡した。
双子はやっぱりという顔をして興味深くその花を眺めていた。

「ふふふ」「うふふ」
「デイジーの花言葉は純潔、無意識、無垢…これもマリアさんにぴったりね、でも花言葉も所詮は言葉だわ」
「それだけでデイジーだとわかったわけじゃないの。言うならばオーロラファンタジーの想像力ね」
「やはりマリアさんはオーロラファンタジーのミューズに相応しいわ」
「もちろん、さくらも私たちの世界観をよく理解してくれている。でも今回はエモーションが重要な要素ね」
「恋みたいな気持ち、かしら」

少し間を置いた後、双子はドレスのひとつに目を映し、その最終確認の作業に入った。

「エネルギーに溢れながら、どこか儚い、そして誰かの幸せを願っている…そんな咲き方だわ」
「デイジーのイメージ、たしかに受け取ったわ。まったく予想外というわけでもないけれど、画竜点睛というやつね」

「あなたは、私たちに聞きにきたんでしょう?どうしてまだ会ってもいない姫里マリアさんに星座プレミアムドレスを託すのか」

 わたしはマリアに頼まれて、デイジーのイメージを届けにきた。でも双子のデザイナーが言うように、プレミアムドレスを託すってことはどういうことなのか、聞きたかったんだと思う。わたしは自分でデザインしたドレスを自分で着るから、人に託すってことがよくわからない。見知った仲でも容易く渡せるものじゃないのに、グリーン・グラスというデザイナーとマリアの間にはどういう信頼関係があるのか、知りたかった。でもわからなかった。グリーン・グラスというデザイナーはもうその問いについて答えてるんだ。オーロラファンタジーの想像力。妖精の運んできたもの。わたしにはわからない回路、わたしの踏み込めないところがあるんだってこと。
 どうしてマリアはわたしと違うんだろうって思っていた。でもそれは、同じだったらいいなっていうのの裏返し。そして、結局違うものは違うってわかっただけなのに、こんな気持になるなんて。

「マリアさんのことが大切なのね」
「ひとつ、聞いてもいいかしら」
「あなたのブランド、ボヘミアンスカイを着せたいとは思わないの」

 考えなくてもわかる。マリアにボヘミアンスカイは似合わない。
 似合うわけがない。

「マリアさんのことが好き?」
「もちろん、好きです。でもそれは」
「アイドルにLikeは必要ないわ。そうでしょう?」「そうでしょう?」
「ずるい…」思わず口走ってしまった。

 わたしはデザイナーでもあるし、アイドルもやっている。
 グリーン・グラスという双子は絵本作家でもあるし、デザイナーもやっている。
 わたしの身体はひとつなのに、引き裂かれているのはわたしの方だ。

「マリアさんは待っているわ。でも、あなたは待っているだけのマリアさんに苛立つことはないのかしら」

 マリアが待っているのはオーロラファンタジーのプレミアムドレスで、ステージの準備っていう必要なことをしてる。苛立つことなんてない。

トルソーにかけられたドレスが例の装置によってデータ化され、アイカツカードにその姿を変えていく。

「できたわ、牡羊座の星座プレミアムドレス、チロリアンアリエスコーデ」

 あれだけケルトの妖精の話をしていたそばで、双子のデザイナーが作っていたのはチロリアンなドレスだった。最初にケルトって言葉を口にしたのはわたしの方だったのだけど、わたしは自分がずれた話をしていたんだって気分になった。ケルトとチロルくらい、なにかがずれているんだって感覚があった。目の前のカードをよく見てみる。マリアにぴったりな、牧歌的で、開放的な、かわいい、ドレス。

「私たちって筆不精だけど、はじめましての挨拶くらい添えるべきよね」
「手紙と一緒にこのアイカツカードを届けてくださるかしら、風沢そらさん」
「はい、必ず届けます」

「そらさん」

グリーン・グラスというデザイナーは、初めてわたしを下の名前だけで呼んだ。

「デイジーの花言葉、もうひとつあったわ。花言葉って結構適当なの」
「なんでしょう」

「”あなたと同じ気持ちです”よ」

 グリーン・グラスはそう言いながら、わたしを抱きしめた。
 どういう意味だったんだろう。双子姉妹はわたしを哀れんだのかな。

 言葉を超えて分かり合える妖精たちの世界があって、わたしはそこにアクセスすることができない。

 妖精の羽根を持ってないと本当には自由になれないのかも知れない。そう思った。
 すぐ近くでヘリコプターのローターの音が聞こえる。プリンセス・ツーがもう一度飛ぼうとしている。
 こんなものは羽根ですらない。人間が空を飛ぼうとして、金属で作った歪なハリボテ。
 それでもわたしは大切なものを届けなくてはいけない。マリアが待っているところへ。

 不完全な羽根で赴くんだ。

■姫里マリア

 私は、そらを待ってる。
 デイジーのイメージはちゃんと伝わったかな。
 どうして私はデイジーを思い浮かべたんだろう。
 私がイメージを伝えたかったのはグリーン・グラスさんだったのかな。

 ううん、多分だけど、グリーン・グラスさんは伝える前にいろいろわかってるんだと思う。

 私は、今日の歌のためにデイジーのイメージが必要だったの。
 グリーン・グラスさんも私の歌う歌について考えてくれてるはず。
 私が本当に伝えたかったもの。それは歌。

 オーロラプリンセスっていう歌。
 本当は私の方が駆けつけていきたい。私の方から迎えに行かなきゃいけない。
 空を見上げるプリンセス
 ふと、何か叫びたくなった。

「そらー、私、待ってるからねー」

 オーロラプリンセスの歌の中では「だいじょうぶお待たせ」と言って相手のところへ舞い降りるわたしがいるのに。まるで正反対の言葉が、稜線の向こうからこだましてきた。

  待ってるのに、待たせてる。

 ―――私は天の邪鬼だ。

■グリーン・グラス(一年後)

「あの時はそらさんに意地悪してしまったわね、リサ」
「ふふ、エレナ。だってそらさんは強い人だもの。あの若さでブランドを軌道に乗せてる」
「そう、若さ。私たちがそらさんに提示できるのは、彼女の若さくらいだってわかってたわ」
「私たちは元絵本作家でありデザイナー、そらさんはアイドルでありデザイナー。この違いがそのままオーロラファンタジーとボヘミアンスカイの違いに直結するのなら、ボヘミアンスカイはこれからもっともっと伸びていくはずだわ。そらさんは自分自身で背負っていく部分が大きすぎるけれど、それを決心したのは彼女自身なのだから」
「絵本作家―物語作家である私たちは自分自身で物語を切り開こうとしていくそらさんが羨ましかったのかも知れないわ」
「だから意地悪になってしまったのだわ」
「でも、意地悪してでも、マリアさんを意識して欲しかったの」
「そう、それも私たちの本心よ」
「恋みたいな気持ちを大切にしてほしい。それが私たち物語作家が出来うる、したたかな介入だわ」
「妖精の役割、と言ったほうがいいかしらね」
「重要なのは同じかどうかではないわ、必要かどうかよ」
「相手を家畜にしてしまうかもしれない、もしくは単なるお人形さんにしてしまうかもしれない、そういった恐れみたいなもの」
「自分を、相手を壊してしまう恐れみたいなもの」
「必要としていることは確かなのに、それが自分なのかどうなのかもわからなくなったとき、そんな狭間に妖精はいるわ」
「私たちはそらさんとマリアさんの間で役割を演じようとしたけれど、星宮いちごさんはもう少し別の位相でうまく妖精を演じたわね」
「やはり私たちは絵本作家であって、アイドルではない、アイドルには敵わないと思ったわ」
「大スターいちごまつり、星宮いちごさんのリラフェアリーコーデは是非オーロラファンタジーで作りたかったドレスだわ」
「フェアリーの名を冠するならばね」
「でも私たちは星宮いちごさんと天羽あすかさんの絆も知っているし、星宮いちごさんの物語を上書きするようなことは控えて正解だったのよ。いちごまつりでは”恋みたいな気持ち”を言葉にしてくれる花音さんという人もいたのだし」
「妖精が多重に作用してしまうことになるのね」
「そう、星宮いちごさんと、神崎美月さん、大空あかりさんはそれぞれ絆を大切にしながら、糸車の呪いを解こうとしている。そこにはもう私たちの入る隙間はないわ」
「アイドル兼デザイナーという肩書なら、神崎美月さんも、そうね。難しい生き方をしてる」

「ねぇ、リサ、私は時々考えるのよ、私たちが絵本作家、物語作家として書けるものってなんなんだろうって。例えば風沢そらさんの弱い内面を綴った文章を書いたとしても、なにか書き切れてないと思うとき、一体何なら書けることになるのかしら」
「単に書くだけならば何でも書けるわ。エレナが言いたいのは、何が託せるか、ということでしょう」
「そうかしらね」
「あなたがそう思ってることは私にもわかる。そして、あなたにわからないことは私にもわからないわ」
「妖精にも」
「妖精にもわからないの」
「例えば大きな災厄を経験した人、呪いの糸に絡め取られてしまった人たちが星宮いちごさんや風沢そらさんの姿を見て何を感じ取るかは、私たちにはわからないわ。私たちは、そういった読者や視聴者が時間に刻み込んだなにかが降り積もったところで、ただ戯れるだけなのよ」

(終)

ズートピアのネタバレ感想

ズートピアのネタバレ感想。僕の外れた推理をメモっただけである。雑でごめんなさい。

ズートピアはとてもエロティックだし、そうであることが必要な作品である。それは単にジュディやニックの造形に色気があるというだけではなくて、エロティシズムはズートピアという都市を成立させるものとしてとても重要な要素になっているのだと思う。

土台

まずはじめに、肉食動物と草食動物が共に共同体の構成員になるために必要なことを考えてみよう。第一に、肉食動物の食料問題を解決しなくてはならない。特に説明は不要かと思うが、草食動物が肉食動物に食べられてしまうなら、そこに共同幻想/共同意識を見出すのは難しいだろう。第二に、第一の点と関係することだが、平等ではなくあくまで公平にエネルギーが分配されなくてはならない。この2つの課題を解決する物語上の装置は、高度に発達した(科学)技術ということになる。スマートフォンや監視カメラ、電車や車のサポートによってはじめて市民として並列化できるわけだ。高度な技術がどこからもたらされたのかはわからないが、装置としてそこは飲み込むこととしよう。一般的な人類史のように、文明化、産業革命、IT革命というわかりやすい経路ではズートピアは成立し得ないだろう。

繋がり

次に、ズートピアは何によって繋がっている都市なのかを整理したい(つまり人間社会と変わらないということを確認したいのだが)。劇中で語られる理念がある。「もしあなたがキツネに生まれて、ゾウになり たかったら、ゾウにでもなれるのがこのズートピアなんだ」「なりたいものになれる」という社会像が共有されている…ということになっている。ただ、劇中でジュディが直面するように、実際はそこまでうまくいっていない。差別的な意識が色濃く残っているのだ。もう少し「実際的に」ズートピアを繋ぎ留めているもの、それは互いに意思疎通可能な「言葉」、そして言葉で表現され、ジュディが警官として司る「法律」、法や常識の補償として結実する「エロティシズム」である。

  • 【言語】
  • ズートピアもまた言語によって共同意識が想像されている。インド訛りやイタリア訛りがありつつも、ズートピアの住民(哺乳類)は言葉によって繋がっている。

  • 【法律】
  • 劇中でも誘拐、駐車違反、詐欺、脱税、覚醒剤取締の概念が存在することは明らかにされている。もちろん、肉食も禁止されているだろう。暴力の抑制、暴力の独占(警察や軍隊)は国家装置の役割のひとつだが、それが完璧でないこともズートピアは描いている。すなわち、マフィアが存在するということは、暴力の独占が少し失敗していることに他ならない。

    ところで、「服を着なければならない」という法律は存在するのだろうか。人間社会でもそのような条文を採用するには運用上なかなか難しく、状況をある程度考慮したわいせつ罪という概念によって処理される。ジュディたちが訪れるナチュリスト・クラブのシーンには「公の場では服を着るという常識」があるということと、その帰結として「わいせつ」の概念があることが垣間見える。ナチュリストにとって例え一時でも常識を脱ぎ捨て、もう一度裸になることはひとつの解放行為だろう。しかし「クラブ」に留まっていることからわかるように、ズートピア全体の理念を否定しようとする運動にはなっていない。あくまで裸でありたい人たちが集まっている一角として、多様性のひとつとして収まっているわけだ。

  • 【エロティシズム】
  • ズートピアにおいても裸でいることはエロティックなコードである。バタイユにとってエロティシズムは人間と動物の性のあり方を分かつものだったが、規則に縛られて成り立っているズートピアにはエロティシズムが確かに存在している。ガゼルやトラのダンサーはポップアイコンであると共にセクシュアルなアイコンとして、種族を超えてズートピアの住民を惹きつける。また、性的に規定される必要があるかどうかはともかく、ちゃんと結婚制度もある。それぞれの種族特有の性のあり方が抑制され、そのかわりルールによって性が担保されている。ズートピアを物語として楽しめるのは、人間社会と変わらないエロティシズムがちゃんとそこにあるからだ。

境界
というわけで、ズートピアを繋ぎとめているものを確認してきた。ここからもう少し話を発展させたい。つまり、その限界はどこにあるのか、ということである。

  • 【食欲と性欲】
  • 肉の繋がりを欲するという意味で食欲と性欲は同一直線上にある欲望だというふうに言われることがある。だからこそ、食欲と性欲は文化的装置によって区別されなくてはならない。調理規定や食事規定、食器等の装置を用いることによって食欲と性欲が混同しないように意識し続けなければ、両者は簡単に混ざってしまう。

  • 【内部と外部】
  • 最初に確認したように、ズートピアでは高度な技術によって肉食動物も草食生活で活動エネルギーが賄えている。さらに一歩踏み込むならば、植物(正確に言えば、きっと哺乳類以外のもの)は食べ物として見て良いという認識、植物は共同体の構成員ではないという認識が共有されている。植物は常にモノである。草食動物は草食動物であることを続けられている。

ここからが感想

ナチュリスト・クラブのシーンを見た時に僕が思ったのは、「黒幕が肉食動物だったら収拾がつかなくなるんじゃないか」ということだった。動物はもともと裸だったのだから、という言葉はなかなか不穏に響いた。本来の姿はなんだったのか、という思考が犯行に結びつくとしたら、その動機はどうなるか。犯人が草食動物だった場合と肉食動物だった場合の2パターンを考えてみた。

  • 【犯人が草食動物だった場合】
  • 「もともと肉食だった輩は怖い」という感情が動機になると考えられる。問題は偏見の暴走というところに落ち着くだろう。

  • 【犯人が肉食動物だった場合】
  • 「もともと肉食だったのに、草食生活を強いられた自分はもうなんなのかわからなくなった。なりたいものになれるはずのこのズートピアで、私は本来そうであった自分には絶対になれないと気付き、絶望したのだ」というかなりこじらせた動機になるだろう。

    この時点で「何故失踪したのか」を考えるにはまだ材料が不足しているとはいえ、whydunit(動機)を重視して見ていくと、犯人が肉食動物だったパターンではどこに着地するんだろうと思った。この場合、草食動物であるというアイデンティティーを奪われていないジュディでは対抗できない。

物語が進んでいくにつれ、疾走した肉食動物は野生化し、監禁/保護されていたことが明らかになる。この時は、何らかの儀式によって野生を取り戻した動物が元に(市民としての状態に)戻れなくなったのかと考えた。まだしばらく実存的(?)動機の線は消すことができず、非常にハラハラする。なぜ儀式による覚醒だと思ったのかというと、それは冒頭、最初のシーンが儀式=演劇だったからだ。肉食動物はもはや、舞台の上でしか草食動物を殺せない。この場合の犯人にとって、ズートピアの方が壮大なるお芝居なのだ。

お芝居(劇中劇)で始まる物語というのはよくあることで、それは大抵、物語の要約として機能する。ジュディはもう一度殺され得ることが予言されているのだが、主人公として逆転するには、ジュディ単体では物理的にも思想的にもちょっと弱い。そこでニックがどう活躍すればこの場合の犯人に対抗できるのか考えたのだけど、乱交というか、オルギアみたいなものしか思いつかなかった。ジュディとニックが(マクロスみたいに)ラブラブして、君もおいでよ、って言う展開。ディズニー映画っていうフィルターを通すなら、乱交じゃなくてやっぱり歌になるんだろう。しかしバッファローの署長が「この作品はミュージカルじゃない」と釘を打っていた。じゃあどうなるんだ。という感じで物語に引きこまれていく。

終盤、野生化が内的な要因によって引き起こされるのではないということが示される。この「狼の遠吠え」はちょっとデウス・エクス・マキナ的だ。とはいえ、植物=モノが原因ってことにしなければ、とてもじゃないがこの事件はディズニー映画の枠内で解決できない。「狼の遠吠え」がモノであることによって、草食動物犯人説が本格的に復活する。むしろ草食動物が犯人であるために外的な要因が導入される。ここで僕が内心思ったのは「危なかった…これでジュディが対抗できる水準の犯人が出てこれる」ということだった。百獣の王だったライオン市長がシャア・アズナブルみたいなこと言い出さなくてよかった。

振り返ってみると、ナチュリスト・ヨガクラブのシーンを見てから妙に焦ってしまった。お芝居もヌーディズムも社会のありようを見つめなおす境界的行為だ。ズートピアを破壊しようというものではないが、何か補償を求める気分がそこにはあるはず。自分に対する疑問も考えてるよ、ちゃんとヌーディストもいるよ、ということを見せたのはすごいと思った。

猥褻と芸術

「猥褻とはなにか」「表現の自由とはなにか」といった文言はことあるごとに呼び出される問いである。

チャタレイ事件サド裁判、または千円札裁判を参照するまでもなく、猥褻性や芸術性が問われれる場面は多い。いや、多いというよりは常に問われていると言い直したほうがいい。問われない場面を想定する方が難しい。猥褻の定義は曖昧であり、その実態は時代によって変化する。それはわたしたちをとりまくメディア空間が日々変化しているからだ。性欲は本能的なものだから後天的に会得するメディア認識やメディア体験が全く無関係だと思っている人もいるだろうが、そういった立場は説得力に欠けると言わざるを得ない。実際はより複雑である。服や映像、絵画や演劇、「表現」と意識されていない日常の風景の混み入った事情から、多くの場合そのギャップとしてエロテッィクという感覚を分別していると考えられる。だから実際多くの人それぞれのエロには差異があるが、一方で最大公約数的に共有できる領域も存在する。この領域の変遷が先に挙げた裁判の判例として代表されているという訳だ。こういう考え方に則って記事を書いていく。

手続き的なレヴェルの話

とりあえず、基本的なところから確認していく。日本国憲法第21条によって表現の自由を規定し、刑法では特に174条や175条周辺においてわいせつに関する罪を規定している。ここでは簡単にしか触れないが、判例からは例えば「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義に反するもの」というように猥褻が定義されている。細かい部分に色々とツッコミどころはあるが、要するに「性欲を刺激するもの」を「みんな」へ向けることが罪とされているわけだ。

では何が「性欲を刺激するもの」なのか、なにをもって「みんな」とするかという話になる。勿論そんなものをいちいち議論するのは現実的ではない。露出魔を是としないならば、やはり公然わいせつのような概念を適用しなければならないし、その為には現場レベル(つまり警察機関)の基準が必要になってくる。それがつまり性器の視覚的直接表現というわけだ。性器の視覚的直接表現が猥褻だと規定されているわけではないが、判例から推測するに、「未知の事態」にはそのような基準で対応することがさしあたり問題となる確率が低いと考えられ、かつ有効に機能する確率が高いと考えられる境界だった。別の言葉でいうなら、ヒューリスティック評価のための指標であり、組織(それもハンコで動く公的機関)の取りうる合理的戦略ということに過ぎない。警察はそのようにしか振る舞えない組織だからそうしているのであって、猥褻を規定しているわけでも芸術性を評価しているわけでもない。

銭湯が公然わいせつとして禁止されないのは「未知の事態」ではないから、公然性や猥褻性への理解が共有されていると目されているからだろう。警察が性器の視覚的直接表現を基準にして動くのは、公然性、芸術性、猥褻性への評価ができない故の手続き的なレヴェルの話なのだ。

愛知県立美術館「これからの写真」展について

「これからの写真」展は、警察がまさに性器の視覚的直接表現を理由にその展示形態に介入したケースである。詳しくは色々な記事にまとめられているのでそちらを参照されたい。

愛知県美術館における鷹野隆大の作品展示について
撤去しなければ検挙するといわれ、やむなく展示変更となった愛知県美術館展示について写真家・鷹野隆大さんに聞く

簡単にまとめるならば、事前に弁護士と相談しゾーニングをしながらも性器の視覚的直接表現であるから撤去をしろと警察が指導してきたということになる。美術館という空間の公共性、それ自体が持つ芸術性への寄与、そして注意書きやゾーニングという要素を全く考慮していないのだ。先のリンク記事にもあるように、警察自身もそのことを自覚している。問題は次の後半部分だ。

警察は芸術性の判断には踏み込まない、陰茎が写っていれば一律アウトとするしかない

陰茎―さらに一般化して性器―が写っていれば法に触れ、一律アウトというのは端的に間違っている。基準を順守しようとして空回っている、敢えて言うなら警察がポンコツだったのだ。性器の露出・視覚的直接表現が本来は一律アウトであり、たまたま通報があったので看過できなくなったと思っているのかもしれないが、そのような規定は見たことがない。条文や判例がいかにも回りくどい文章で猥褻を表現しようとするのも、それを法のレヴェルで=性器の露出・視覚的直接表現と短絡することを避ける為ではないだろうか。ここでは法の解釈と現場の都合が混同されている。

しかし、このことを指摘できている意見は皆無だ。思想統制、ホモフォビア、反知性主義の蔓延という大雑把な反体制ストーリーの位相しか語られていないどころか、的外れなものも多い。そういった発信も必要には違いないが、問題を整理・解決するには遠回りであろう。一番多いのは行政と司法を混同した上で、公権力が芸術性を規定するのはけしからんというものだ。これまで述べてきたように警察は芸術性を判断しているつもりはないが、手続きを混同している。一方で美術の側に立つ立場からも芸術性について論じるべき場所で論じていない。後述のろくでなし子の件については本人以外に表現の意図以上のことを語ろうという人が皆無である。

鷹野隆大作品は“わいせつ物”か

美術手帖2014年11月号記載の土屋誠一「ポルノである、同時に、芸術でもある」では冒頭で美術館の意義について触れられているが「マイナーなものの排除」というよくわからない方向に回収されてしまった。ゲイポルノ的であろうとなかろうと、問題点を曖昧にしただけだと言わざるを得ない。

さらに問題を複雑にしているのは、愛知県立美術館が結果的に警察の指導を受け入れてしまったことにある。警察は作品の撤去を求めたが、要するに基準を厳守しようとするその指導は「性器の直接表現のある作品」の撤去に他ならない。実際は撤去ではなく展示変更で対応したというのが普通の見方だが、警察からすれば確かに「性器の直接表現のある作品」は撤去されたのだ。このことについて、警察と美術館側では認識に大きなズレがある。フィルムアート社『キュレーションの現在』の中で中村史子はこの展示変更について警察の介入の痕跡を残す機知に富んだ対応と述べているが、警察側は「してやられた」とも思っていないだろう。

この介入について警察に指導の撤回を求めるweb署名が集められたが、聞き入れられなかったようだ。警察からしてみれば既に「受け入れられた」指導を撤回する動機がまったくないから当然といえば当然だろう。基準に従って指導し、美術館側がその指導を受け入れたのだからどこにも問題はないように見える。ハンコで動く組織が既に通ってしまった案件をハンコなしで覆すはずがない。

はたまた、愛知県立美術館は敢えて展示変更を選んだのかもしれない。展示変更でなければ検挙すると言われてパニックになってしまうということも考えられるが、この検挙という言葉はそのまま逮捕を意味するわけではない。なにしろ事前に弁護士に展示形態を変更し、問題ないというお墨付きを貰っているのだ。その旨を伝えてもなお「陰茎が写っていれば一律アウトとするしかない」という頑なな返答に対してヒヨリすぎではないだろうか。ちゃんと突き詰めて判例を見て行きましょうとはならなかったのだろうか。弁護士の理論武装に対して現場の警察が常に優越するものだろうか。現場の警察官が美術館や判例に対して恐ろしく無知だった可能性の方が高く、むしろ然るべき場で争う方がよかったように思う。勿論これは所詮ひとごとだから言える、リスクを軽く評価した立場の意見かも知れない。後述のろくでなし子の件とは違い、愛知県立美術館で警察の指導があった段階では展示変更さえすれば無傷でいられる可能性が開かれている。さらには、警察の不当な介入は展示の良い宣伝にもなる。ある程度確実性のある選択肢とは対照的に、警察へ検挙されるというのは短期的には非常に大きな負荷に思えるだろう。長期的視野に立てばちゃんと争うべきだとしても、すぐにその後の見通しが立つ展示変更を選ぶ心境も理解はできる。

しかし結果的にこの件について然るべき場で争う機会は失われ、「美術館内の、更にゾーニングされた展示でも性器の視覚的直接表現には撤去指示が出せる」という前例を作ってしまったという側面も忘れてはならない。

ろくでなし子、2度の逮捕について

性器表現と猥褻性について、一方では逮捕された事件がある。それも2度も。

「ろくでなし子」事件、初公判は4月15日――女性器スキャンデータは「わいせつ」か

ろくでなし子の作品は猥褻でない女性器表現を模索しているように見える。そうでなければ、可愛かったり、カラフルで楽しいものにする必要はないからだ。そして猥褻でない性器表現は原理的に猥褻を前提とする。わからないのは、刑法175条の合憲性まで問うというところだ。こういうのは大きなこともとりあえず言ってみればアンカリング効果で本筋が些細なことに思え、主張が通りやすくなるという要するにハッタリに過ぎないのだろうが、主張そのものが矛盾してしまうのではないだろうか。猥褻な性器表現はありえるのかという点が曖昧になっている。

良くも悪くもろくでなし子作品はコミカルに留まっているが、「まんこちゃん」によって逮捕されたのではなく、モザイクに当たるノイズが充分でない性器の造形データ(プリントした時のサイズもおそらく問題点であろう)によって逮捕されたことに注目したい。

女性器の3Dスキャンデータについても、活用の仕方次第でもしかしたらポルノとして成立するかも知れない。しかしそれ自体で直ちに…と言われればそこまでは信じられない。

ろくでなし子の作品の芸術性については、美術批評家や批評家が「現時点では美術の本流にはいないがいつか評価されるかも知れない」という旨の発言をしている。つまり積極的な展開を避けているようだ。結局自分でない誰かが論じてくれるかも知れないと言っているに過ぎない。いかにも美術業界という感じで、表現の自由の擁護ひいては反権力的なポーズをとるためには重要な題材だが、道連れになって火傷はしたくないということではないだろうか。何が言いたいのかよくわからない。

https://twitter.com/shinkawa_takash/status/541531934149459968

46:象徴としてのわいせつ——ろくでなし子と赤瀬川原平

ならば、新しい東京五輪を控え、赤瀬川原平が死んだのと同じ年に奇しくも起きた今回の「模型女性器」による逮捕劇が、今日、赤瀬川の「模型千円札」がそうなっているように、やがて美術史的な価値を得ることがないとは、決して言えない。いやむしろ、後世が女性にとって、より開放的な社会になっていればいるほど、その可能性は高い。

お金がただの紙であることなんて当然だ。お金はただその信頼のみによって巡る。そうでなければハイパーインフレなんて起こらないだろう。最初から問われているのは何故信頼を寄せようと思うのか、猥褻なものは如何にして猥褻になるのかということなのだ。

付記

男と女両方を経験したテイレシアスは「男女の性感の差」を答えヘラに視力を奪われた。オイディプスは自ら目を刺し盲になったが、両者に共通するのは論理的探求者・観察者としての罪を背負ったことにある。ひとつの権利主体だと思いながら、それを脱構築する物語的真実に触れたが故に盲目となる。

男女の性感・性欲が完全に比較可能である―つまり、同軸上で評価できる―とすることはある種の世界観を崩壊させるかも知れない。しかし、全く想像しないわけにもいかない。過剰な一般化と、ブラックボックス化と、安易な相互性の織物を編み上げる。

男女(もしくはストレート/LGBTでもいい)の性感・性欲が非対称であって、消費可能性が非対称だとしても、法的な位相では平等である。その実態と織り合わせよりよい状態を実現するために議論を続けていく必要があるだろう。

it starts here and now

プリキュアオールスターズは、歴代プリキュアシリーズのキャラクターが一同に会する春のお祭である。
正統派なクロスオーバー作品としてスタートしたプリキュアオールスターズDX3部作、
妖精達やゲストキャラクターに視点を移したプリキュアオールスターズNS3部作を経て、
今年は歌とダンスに重点を置く『春のカーニバル』が公開された。

女の子の集団は怖い?
(仮面ライダーとスタイルを違える)プリキュアが束になって敵と戦うというのは、しばしばリンチのような構図になってしまう。この問題は制作者側も意識していたようだ。プリキュアの増加に伴ったDX→NS→『春のカーニバル』への変遷は、敵の抽象化であり、矮小化でもある。

DX:テレビシリーズの敵幹部の集結
NS:妖精の国(=幼稚園)で起こりがちな問題の寓意、自己顕示欲や親の過保護
『春のカーニバル』:偽王の戴冠と死

世界の危機を演出するような悪意と肉弾戦をするには、プリキュアはもう多すぎるのだ。数え方にもよるが、40人のプリキュアを活躍させるには、歌とダンスしかない。

道化との戦い
カーニバルのような祝祭空間では秩序の転倒が起こる。穀物霊と同一視されたプリースト・キングが殺されることによって共同体の安定性を図る所謂「王殺し」は、やがて祝祭空間でのモック・キングの死に変わっていく。というわけで、金枝篇的なストーリーにプリキュアを無理矢理こじつけてみよう。

さて、『春のカーニバル』ではプリキュアは道化を倒す。(正確には偽王ではないが国を乗っ取り大臣を名乗る道化だ。このふたりに歌まで用意されているというのはなかなか楽しい)そして開放された王ははっきり言って役立たずだ。権力を行使するでもなく、ただ守護神(ドラゴン)の説明をするための霊的媒介者=プリースト・キングでしかない。ドラゴンは、プリースト・キングの背後にある自然の霊的な具現化である。

歌とダンスを捧げなければ怒って火球を放ってくるドラゴンというのはそれほど荒唐無稽な存在ではない。カーニバルは謝肉祭/収穫祭であり、王を介して超自然との関係を捉え直す場であるからだ。偽王が役割を貫徹しなければ、収穫の源である自然とギクシャクしてしまう。

道化を倒すに留まらず、自然霊とまで相対するなんてプリキュアたちはなかなかちゃんとカーニバルしているのではないか。

I wish… More than anything

お伽話やミュージカル、古典演劇を楽しむための簡単なイメージ。

映画”Into the Woods”は1987年初演のブロードウェイミュージカルをウォルト・ディズニー・ピクチャーズが実写映画化したもの。赤ずきん、シンデレラ、ジャックと豆の木、ラプンツェル等のお伽話をクロスオーバーした批評的なストーリー、スティーヴン・ソンドハイムによる楽曲がディズニーの近年の流れに乗っかり、まさに2014年(日本公開は2015年)の映画として結実している。

そういうわけで、ディズニー映画の『シンデレラ』、『塔の上のラプンツェル』とは直接の関係はなく、原作の方のイメージで描かれる。フェアリー・ゴッドマザーは出てこないし、ラプンツェルの恋する相手も泥棒のフリンではなく王子なのだ。4月に公開される映画『シンデレラ(実写)』はディズニーの『シンデレラ(アニメ)』のイメージを汲んでいるのでちょっとややこしい。

私は私の望むものを手に入れるために、森へ行く

『イントゥ・ザ・ウッズ』は、登場人物が自分たちの願望を歌い上げることから始まる。それぞれの願いと手段が森のなかで交錯する。お話の筋としてはこの上なく単純だろう。別々のストーリーを持つおとぎ話の世界を繋ぐのはこの森と子どもが生まれない呪いを解こうとするパン屋夫妻である。

伝統時な家族の在り方?

ところで、同性婚に先立ち渋谷区が同姓パートナー制度を設けようという時分、一歩前進と歓迎する人がいたり一方で反対デモが行われたりしている。当然ながら反対の主張は様々だが、家族の在り方を崩してしまうと言ったり、子どもができないということに違和感を抱く人もいるようだ。自然界には同姓愛があるとかないとかよくわからない話が出てくるのも、知識の問題ではなく家族に対する信仰の基点が「子どもをつくる」こと、もしくは「フェティシズムの対象としての子ども」であるからだろう。そうでなければ、同姓パートナー制度は権利主体としての異性愛者を攻撃するものではないから、特に反対する必要がないはずなのだ。

お伽話の老夫婦

さておき、「子どもが生まれないカップル」である。これは例えば、「むかしむかしお爺さんとお婆さんが住んでいました…」という書き出しとともにお伽話の定番設定だ。別にお爺さんとお婆さんでなくとも、「子どもが生まれないカップル」に言い換えられる。桃太郎やかぐや姫など、子どもの特殊性を演出するための準備に過ぎないのだ。出生の特殊性は超自然的な恩恵を強調し、子どもは英雄的な宿命を帯びる。

『イントゥ・ザ・ウッズ』のパン屋夫婦は「子どもがうまれない呪い」を魔女にかけられていた。それを解くためには3日のうちに4つのものを集めなくてはならない。この「4つのもの」というのも荒唐無稽なのだが、魔女に荒唐無稽さを指摘するのは無粋だ。魔法と歌は物語の中の言葉を支配し、関係を圧縮する。ミュージカル映画においては殊更に。

ただ願っていただけ

ここで唐突に、『鋼の錬金術師(2003年・アニメ)』を引用しよう。ここはスクラップ・ブックだから、詳細な設定考察するでもなくネタバレを積極的にするでもなく、ただ並べてみる。主人公のエルリック兄弟は死んでしまった母親を生き返らせる為に禁忌の人体錬成を犯し、母親の復活どころか弟アルフォンスの身体、兄エドワードの右腕左脚まで失ってしまう。元々持っていたものを取り戻すためにエルリック兄弟は旅に出る。鋼の錬金術師は彼らの運命を描いた物語であり、2003年のアニメは原作から逸脱したオリジナル展開となっている。

「元々持っていたもの」、それも究極的と言っていい「母親」や「自身の身体」を取り戻そうとする鋼の錬金術師をイントゥ・ザ・ウッズに対置するのは少し分が悪いかも知れない。エルリック兄弟のwishとパン屋夫婦のwishは様々な次元で違うが、子どもへのフェティシズムは身体の一部だという感覚の「魔術的」転移だと言えば、強引に共通点を見出すことも不可能ではない。魔女の呪いと、錬金術の禁忌なら結構似ている。1年間のテレビシリーズでは歌わなくて済む、という見方も導入したい。ミュージカルでは何が歌になっているのか。

誰のせい?

鋼の錬金術師は幼い兄弟の「母親との日常を取り返したい」なんて純粋な感情を錬金術というシステムを用いて戦争や虐殺へと結びつけてしまう。ここでの「戦争」が何に変容するか、お伽話の寓意性に注目して欲しい。 48話「さようなら」より

「軍属になってみたけど、戦争なんて俺たちの知らない人が知らない場所で始めて勝手に終わる。自分たちには関係のないものだって、思っていた。でも、賢者の石を得る為に戦争を起す奴がいる。だから戦争は続く。そしてその心は、誰にでもある。ホムンクルスが戦争に火を注ぐ。だけどそれを作ったのは人体錬成だ。俺たちの知恵が、心が、作ってしまったものに過ぎない。だから、関係のない戦争なんて、ない」

「だがそれは、あまりにも大き過ぎる。我々に出来る事は、いつだって目の前にある事だけだ」

「・・・ホムンクルスの上に居る奴を、倒す。賢者の石を消滅させる。誰も思い出さないように、誰の記憶からも消えるように」

「消滅?」

「賢者の石?やはり完成していたのか。しかし、それはもしかして・・・」

「賢者の石を生み出したのは奴じゃない。俺たちの、心だ」

「でも、夢だったんでしょう。賢者の石でなくしたものを取り戻す」

「俺たちの夢だけ叶えても、意味が無い」

「自分の夢よりも大事な事か」

「いつだってあるさ、自分よりも、夢よりも大事なもの」

このような罪を背負うには人間1人は小さすぎるし、国家レベルではあまりにも無機質で感情を捉えきれない。続く49話でエドワードは、赤ん坊が泣き喚くのは生き残るための言い訳なんかではないと説く。

母が排除される

wishの土台が崩される時、それでもwishのためにしてきた行動は消えない。物語にルールを与えてきた魔法が「消える」時にどうするか。等価交換という幻想を暴かれファンタジー世界から1921年のミュンヘンへ接続される『鋼の錬金術師』。お伽話のハッピーエンドのその後を描く『イントゥ・ザ・ウッズ』をどう接続していくかも見どころ。

On Sacrament

 グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』メタローグにおいて、サクラメントは神聖なものだとされている。ベイトソンによれば、それは単なるメタファーに収まる領域ではない。そして、なにより特徴的な性質としては、サクラメントとメタファーの違いは人間を離れては出てこないものであり、かつ、言うことができないということだ。サクラメントを決定するシステムは文字通りミステリックそのものでもあり、自分で選ぶことができない、意識でコントロールすることができない問題であり、仮にその秘密を理解した―意識で捉えた―としても、偉大な作品が作れるようになったりするわけではないということである。
 人間を離れては出てこないものであるが、言うことができない、意識でコントロールすることができないということは曖昧とした文章であり、とらえどころがない。目下言えることは、否定形が3つ並んでいるということである。否定でしか記述できない故にそれは秘密=神秘足りえるのだろう。否定神学は唯一ありうる神の証拠としてミステリウムを掲げる。テルトゥリアヌスは『肉体論 De carne』の中で「不可能ナルガ故ニ我レ信ズ( Certum est, quia impossibile est)」と述べた。

人間の経験を基に比喩として出てくる意味合いによって神的本質を汚し伝えるのを避けようとすれば、自ずから道はふたつである。神性を全てという言葉を連ねて表すか(「全」知、「全」能、あるいは「遍」在、等々)、否定の、引き算の表現(「無」限、「無」窮、「不」変、等)をもって表すか、である。
(ロザリー・L・コリー著、高山宏訳『パラドクシア・エピデミカ』白水社 2011年、P38)

 サクラメントにおいても同様の構造があるように思われる。日常的な言葉で神秘を表現しようとすれば、全てや否定の概念をパラドキシカルに用いるしかない。そして、そもそもそれらの概念の持つ曖昧さが、神性についての厳密な記述を不可能にしてしまう。(論理的に使おうとすれば、全てと言った時はその範囲を厳密に指定しなければならない)サクラメントを決定するシステムも、一種のパラドクスであるはずだ。そのシステムは、主体と客体を明確にして記述することができない、もしくはそのような行為自体が、システムを破綻に導いてしまうような性質を持っている。ベイトソンが文化人類学者であることからも、西洋的な思考様式の限界がここでいうサクラメントに託されているように考えても、穿ち過ぎとは言えないだろう。(例えば、何故近親相姦や親殺し等の殺人、食人がいけないとされるのか等の問題も、個人の権利や法哲学の視点だけでは語りきれない性質のものであり、突き詰めようとすれば逆説的に「人間とはなにか」という問いに回収されてしまう。ベイトソンは芸術についてもこのような側面に光をあてていると考えられる)

芸術の神秘性の側面は、論理的なアプローチでは暴かれ得ないのである。

 イングランドの詩人ジョン・ダンの十八番の詩法は「宗教の語を使って世俗の性愛を壽ぎ、肉身の情熱の語彙を用いて神を祝す」というものだった。「愛」も「神」もダンの詩においてはパラドキシカルにしか表現し得ないものという点で共通している。聖を俗の言葉で、俗を聖の言葉で表現した時の驚異が、芸術の神秘性にも関わってきそうである。デュシャンの作品にも聖俗を行き来する側面が強調されている。「L.H.O.O.Q.」はまさに西洋美術の代表である「モナ・リザ」をベースにすることが重要であったし、クラウスが「指標」をキーワードに展開したデュシャンー写真論も、その起源を聖骸布に求めることができる。
 サクラメントは意識でコントロールすることができない。そして、芸術に関わる重要なものでもある。作家は個人の名前で作品を制作するが、それがその人にとってサクラメントであるかは作家には決定できない。ここで言う芸術とは、文化人類学的な射程を持った意味である。アートが宗教美術から乖離したあとも、そこには神秘性が宿り続けている。むしろリチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』よろしく、パラドキシカルにしか表現し得ない、そして人間を魅了してやまないものが時代に合わせてその宿主を変えていっていると見た方が良いのかも知れない。そこで1人の作家名がどのような意味を持つのか、デュシャンの開く美術観の射程は非常に広かったと言えよう。

視覚と触覚

視覚と触覚というテーマを与えられた時、最初に思い起こした文章は、カナダ出身の文明評論家・メディア研究者のマーシャル・マクルーハン(Herbert Marshall McLuhan 1911-1980)の言葉である。マクルーハンは1960年代のアメリカとヨーロッパの衣服について、戦後のアメリカン・スタイルにならって視覚的なものが流行していたヨーロッパと、逆説的だが視覚的な衣服を放棄しかかっていたアメリカを対比し、こう述べている。

こんにちのアメリカでは、中庭や小型自動車によるだけでなく、衣服によっても、革命的な態度が表明されることがある。ここ10年ちょっとのあいだ、婦人の衣服と髪型は視覚的なものを強調しなくなり、かわって図像的なもの―すなわち、彫刻的で触覚的なもの―を強調するようになってきた。トレアドール・パンツや半長のストッキングと同じように、蜜蜂の巣箱風の髪型もまた抽象的で視覚的なものというより、図像的なもので、感覚的に人を巻き込むものである。一言でいえば、アメリカの婦人ははじめて、自分自身をただ見られるだけのものではなく、手で触れて見られるべき存在として表現している。(*1)

マクルーハンは衣服に限らず、様々なメディアを取り上げ、「メディアはメッセージである」、「メディアは人間の拡張である」という主張を繰り返している。殊、衣服に限っては「皮膚の拡張」になっていくというのだ。(マクルーハンは皮膚の拡張であると同時に、衣服は社会的に自己を規定する手段でもあるとしている。この時期ヨーロッパの衣服がアメリカン・スタイルを強調していたのは、アメリカとの歴史の相違、つまり一種の消費者革命を経験しているか否かに因るという説明もしている。)社会の聴触覚価値を分離させてしまっていた視覚的な文化、(マクルーハンによる言い換えを並べると、メディアによって)抽象化はされつつも、抽象度の低い社会=文字文化と工業的視覚秩序に強く支配された社会において、触覚に訴える表現は非常に強烈、または猥褻なものとして映る。しかしそれはそのような社会において、視覚だけが高度になり、諸感覚の均衡を欠いているからに過ぎない。(裸が刺激的なのは、そのような社会においてのみである)「革命的な態度」によってその均衡を取り戻そうとしていく時、つまり視覚以外の感覚をより使おうとして新たな均衡を獲得していくに連れて、衣服はより彫刻的、触覚的なものになっていく。衣服は皮膚の拡張になり、裸の猥褻性は薄れていくというのが、マクルーハンの主張だ。皮膚の拡張としての衣服を、哲学者・ファッション研究者の鷲田清一は1990年の対談(*2)においていわゆる「ボディコン」に見いだしているが、バブル期の日本を取り巻くメディア環境と、「ボディコン」の着用シーンの特殊性を考えると、マクルーハンが予言している文脈には少し遠いだろう。もちろん、とっかかりにはなり得るだろうが、「ボディコン」(原義のbody-conciousとは敢えて区別し、カッコ付きにしている)は刺激的な舞台衣装に収まっていたからだ。

マクルーハンも言うように、性は混みあった生活の補償となりうるものであり、決して衣服だけと結びつくものではないが、強く関係していることは疑いようがない。そして、視覚と触覚というテーマは常に性的である。

写真家の荒木経惟は女性のヌードを撮る時に、触感に拘る。(*3)「目で触る」「レンズで触る」感覚が(特にヌード写真では)必要なのだという。そして「触りたくなる写真」への態度は究極的に枕絵(春画)に行き着く。荒木は対談の中で触りたくなるような、且つ刺激的なものは日本的、あるいは日本人の得意分野であり、西欧の視覚的、第三者的な視点を内包している写真と大まかに対立させている。この対立の妥当性はともかく、視覚と触覚は性をとりまいて、交錯していくという点に注目したい。

見ているだけでは触りたくなるし、触っているだけではそれが何かわからなくなってしまう。触覚的なエロティシズムを表現するために視覚的なメディア環境が必要になることもあるし、エロティシズムを視覚情報に還元し、ノンセンス化することで「諸感覚(もしくは生活)の新たな均衡」に近づくこともあるかも知れない。メディア環境を踏まえて性を考える時に最も重要になってくる感覚は間違いなく視覚と触覚、そしてその体験である。今回の工芸制作・テキスタイルのモチーフ、花についても同様に、視覚と触覚で感じた感覚を統合し、作品に昇華しようとする回路は、エロティシズムに関する回路に他ならない。刺激的なもの、猥褻なもの、もしくはリアリティを感じるという感覚は、殊、衣服や写真や絵画を考える上では視覚と触覚に重点が置かれるのだ。細かな視点から見れば、より視覚的に、より抽象的なものへの方向性が新鮮な価値観や均衡をもたらすことももちろん頻繁に起こるだろう。しかし、専ら視覚的なメディア環境が先行している現状から長いスパンで考えれば、触覚的なものの強さが台頭してくるというマクルーハンの見方には同意せざるを得ない。

*1 マーシャル・マクルーハン『メディア論 人間の拡張の諸相』(栗原裕・河本仲聖訳、 みすず書房、 1987年)122頁

*2 鷲田清一・小池一子「20世紀の身体」石関亮編『時代を着る ファッション研究詩「Dresstudy」アンソロジー』(KCI、2008年)16頁

*2 荒木経惟・深井晃子「触って視る」石関亮編『時代を着る ファッション研究詩「Dresstudy」アンソロジー』(KCI、2008年)73頁

chisachi voice blog 2/27/2012

メディア芸術祭、「タイム」、マリヴォー研究会、「審判」

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今後10年は戯曲というものが必要なくなってくる予感がした。

演劇実験室万有引力
「奴婢訓」/”Directions to Servants”
原作:ジョナサン・スウィフト/Jonathan Swift
作・演出:寺山修司

演出・音楽: J・A・シーザー
美術・機械考案・衣装・メイク:小竹信節
構成台本・共同演出:高田恵篤

恥ずかしながら初見では読めなかった公演タイトルは奴婢訓(ぬひくん)。つまり奴婢の訓戒。もっと砕いて言うならば、召使のための諸注意といったところか。

「世界は、たった一人の主人の不在によって充たされている」

ツバの吐き方、尻の拭き方、洟のかみ方、
ありとあらゆるこの世の儀礼作法を逆手に取って、
下男、下女、召使い、料理人、馬番などの奴婢たちが、
美少年や貴婦人に返送し、中世へと逆流していく叛乱円舞曲!

十三人の女中が月食の夜に主人を縛りあげて、アリアを歌う!
理性に抑圧され、労働に加虐された人間犬たちは氾濫する

Ustream.tv: 過去のライブ: 奴婢訓:Recorded on 12/02/27. お絵描き

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奴婢訓, posted with vodpod

Le Fils Prodigue ou l’Amour Peintre

フランス演劇について、いつかちゃんと勉強したい。
僕の好きなフランス演劇たち。

先週友人の参加しているマリヴォー研究会に無理やり連れていってもらった。読み合わせで実際に読むのは何年ぶりだったのだろう?題材は「恋のサプライズ2」である。

恋のサプライズ2(恋の不意打ち2)/La seconde surprise de l’amour
マリヴォー/Pierre Carlet de Chamblain de Marivaux

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