Chisachi Blog

カイエ、もしくはスクラップ・ブック

On Sacrament

 グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』メタローグにおいて、サクラメントは神聖なものだとされている。ベイトソンによれば、それは単なるメタファーに収まる領域ではない。そして、なにより特徴的な性質としては、サクラメントとメタファーの違いは人間を離れては出てこないものであり、かつ、言うことができないということだ。サクラメントを決定するシステムは文字通りミステリックそのものでもあり、自分で選ぶことができない、意識でコントロールすることができない問題であり、仮にその秘密を理解した―意識で捉えた―としても、偉大な作品が作れるようになったりするわけではないということである。
 人間を離れては出てこないものであるが、言うことができない、意識でコントロールすることができないということは曖昧とした文章であり、とらえどころがない。目下言えることは、否定形が3つ並んでいるということである。否定でしか記述できない故にそれは秘密=神秘足りえるのだろう。否定神学は唯一ありうる神の証拠としてミステリウムを掲げる。テルトゥリアヌスは『肉体論 De carne』の中で「不可能ナルガ故ニ我レ信ズ( Certum est, quia impossibile est)」と述べた。

人間の経験を基に比喩として出てくる意味合いによって神的本質を汚し伝えるのを避けようとすれば、自ずから道はふたつである。神性を全てという言葉を連ねて表すか(「全」知、「全」能、あるいは「遍」在、等々)、否定の、引き算の表現(「無」限、「無」窮、「不」変、等)をもって表すか、である。
(ロザリー・L・コリー著、高山宏訳『パラドクシア・エピデミカ』白水社 2011年、P38)

 サクラメントにおいても同様の構造があるように思われる。日常的な言葉で神秘を表現しようとすれば、全てや否定の概念をパラドキシカルに用いるしかない。そして、そもそもそれらの概念の持つ曖昧さが、神性についての厳密な記述を不可能にしてしまう。(論理的に使おうとすれば、全てと言った時はその範囲を厳密に指定しなければならない)サクラメントを決定するシステムも、一種のパラドクスであるはずだ。そのシステムは、主体と客体を明確にして記述することができない、もしくはそのような行為自体が、システムを破綻に導いてしまうような性質を持っている。ベイトソンが文化人類学者であることからも、西洋的な思考様式の限界がここでいうサクラメントに託されているように考えても、穿ち過ぎとは言えないだろう。(例えば、何故近親相姦や親殺し等の殺人、食人がいけないとされるのか等の問題も、個人の権利や法哲学の視点だけでは語りきれない性質のものであり、突き詰めようとすれば逆説的に「人間とはなにか」という問いに回収されてしまう。ベイトソンは芸術についてもこのような側面に光をあてていると考えられる)

芸術の神秘性の側面は、論理的なアプローチでは暴かれ得ないのである。

 イングランドの詩人ジョン・ダンの十八番の詩法は「宗教の語を使って世俗の性愛を壽ぎ、肉身の情熱の語彙を用いて神を祝す」というものだった。「愛」も「神」もダンの詩においてはパラドキシカルにしか表現し得ないものという点で共通している。聖を俗の言葉で、俗を聖の言葉で表現した時の驚異が、芸術の神秘性にも関わってきそうである。デュシャンの作品にも聖俗を行き来する側面が強調されている。「L.H.O.O.Q.」はまさに西洋美術の代表である「モナ・リザ」をベースにすることが重要であったし、クラウスが「指標」をキーワードに展開したデュシャンー写真論も、その起源を聖骸布に求めることができる。
 サクラメントは意識でコントロールすることができない。そして、芸術に関わる重要なものでもある。作家は個人の名前で作品を制作するが、それがその人にとってサクラメントであるかは作家には決定できない。ここで言う芸術とは、文化人類学的な射程を持った意味である。アートが宗教美術から乖離したあとも、そこには神秘性が宿り続けている。むしろリチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』よろしく、パラドキシカルにしか表現し得ない、そして人間を魅了してやまないものが時代に合わせてその宿主を変えていっていると見た方が良いのかも知れない。そこで1人の作家名がどのような意味を持つのか、デュシャンの開く美術観の射程は非常に広かったと言えよう。

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