Chisachi Blog

カイエ、もしくはスクラップ・ブック

I wish… More than anything

お伽話やミュージカル、古典演劇を楽しむための簡単なイメージ。

映画”Into the Woods”は1987年初演のブロードウェイミュージカルをウォルト・ディズニー・ピクチャーズが実写映画化したもの。赤ずきん、シンデレラ、ジャックと豆の木、ラプンツェル等のお伽話をクロスオーバーした批評的なストーリー、スティーヴン・ソンドハイムによる楽曲がディズニーの近年の流れに乗っかり、まさに2014年(日本公開は2015年)の映画として結実している。

そういうわけで、ディズニー映画の『シンデレラ』、『塔の上のラプンツェル』とは直接の関係はなく、原作の方のイメージで描かれる。フェアリー・ゴッドマザーは出てこないし、ラプンツェルの恋する相手も泥棒のフリンではなく王子なのだ。4月に公開される映画『シンデレラ(実写)』はディズニーの『シンデレラ(アニメ)』のイメージを汲んでいるのでちょっとややこしい。

私は私の望むものを手に入れるために、森へ行く

『イントゥ・ザ・ウッズ』は、登場人物が自分たちの願望を歌い上げることから始まる。それぞれの願いと手段が森のなかで交錯する。お話の筋としてはこの上なく単純だろう。別々のストーリーを持つおとぎ話の世界を繋ぐのはこの森と子どもが生まれない呪いを解こうとするパン屋夫妻である。

伝統時な家族の在り方?

ところで、同性婚に先立ち渋谷区が同姓パートナー制度を設けようという時分、一歩前進と歓迎する人がいたり一方で反対デモが行われたりしている。当然ながら反対の主張は様々だが、家族の在り方を崩してしまうと言ったり、子どもができないということに違和感を抱く人もいるようだ。自然界には同姓愛があるとかないとかよくわからない話が出てくるのも、知識の問題ではなく家族に対する信仰の基点が「子どもをつくる」こと、もしくは「フェティシズムの対象としての子ども」であるからだろう。そうでなければ、同姓パートナー制度は権利主体としての異性愛者を攻撃するものではないから、特に反対する必要がないはずなのだ。

お伽話の老夫婦

さておき、「子どもが生まれないカップル」である。これは例えば、「むかしむかしお爺さんとお婆さんが住んでいました…」という書き出しとともにお伽話の定番設定だ。別にお爺さんとお婆さんでなくとも、「子どもが生まれないカップル」に言い換えられる。桃太郎やかぐや姫など、子どもの特殊性を演出するための準備に過ぎないのだ。出生の特殊性は超自然的な恩恵を強調し、子どもは英雄的な宿命を帯びる。

『イントゥ・ザ・ウッズ』のパン屋夫婦は「子どもがうまれない呪い」を魔女にかけられていた。それを解くためには3日のうちに4つのものを集めなくてはならない。この「4つのもの」というのも荒唐無稽なのだが、魔女に荒唐無稽さを指摘するのは無粋だ。魔法と歌は物語の中の言葉を支配し、関係を圧縮する。ミュージカル映画においては殊更に。

ただ願っていただけ

ここで唐突に、『鋼の錬金術師(2003年・アニメ)』を引用しよう。ここはスクラップ・ブックだから、詳細な設定考察するでもなくネタバレを積極的にするでもなく、ただ並べてみる。主人公のエルリック兄弟は死んでしまった母親を生き返らせる為に禁忌の人体錬成を犯し、母親の復活どころか弟アルフォンスの身体、兄エドワードの右腕左脚まで失ってしまう。元々持っていたものを取り戻すためにエルリック兄弟は旅に出る。鋼の錬金術師は彼らの運命を描いた物語であり、2003年のアニメは原作から逸脱したオリジナル展開となっている。

「元々持っていたもの」、それも究極的と言っていい「母親」や「自身の身体」を取り戻そうとする鋼の錬金術師をイントゥ・ザ・ウッズに対置するのは少し分が悪いかも知れない。エルリック兄弟のwishとパン屋夫婦のwishは様々な次元で違うが、子どもへのフェティシズムは身体の一部だという感覚の「魔術的」転移だと言えば、強引に共通点を見出すことも不可能ではない。魔女の呪いと、錬金術の禁忌なら結構似ている。1年間のテレビシリーズでは歌わなくて済む、という見方も導入したい。ミュージカルでは何が歌になっているのか。

誰のせい?

鋼の錬金術師は幼い兄弟の「母親との日常を取り返したい」なんて純粋な感情を錬金術というシステムを用いて戦争や虐殺へと結びつけてしまう。ここでの「戦争」が何に変容するか、お伽話の寓意性に注目して欲しい。 48話「さようなら」より

「軍属になってみたけど、戦争なんて俺たちの知らない人が知らない場所で始めて勝手に終わる。自分たちには関係のないものだって、思っていた。でも、賢者の石を得る為に戦争を起す奴がいる。だから戦争は続く。そしてその心は、誰にでもある。ホムンクルスが戦争に火を注ぐ。だけどそれを作ったのは人体錬成だ。俺たちの知恵が、心が、作ってしまったものに過ぎない。だから、関係のない戦争なんて、ない」

「だがそれは、あまりにも大き過ぎる。我々に出来る事は、いつだって目の前にある事だけだ」

「・・・ホムンクルスの上に居る奴を、倒す。賢者の石を消滅させる。誰も思い出さないように、誰の記憶からも消えるように」

「消滅?」

「賢者の石?やはり完成していたのか。しかし、それはもしかして・・・」

「賢者の石を生み出したのは奴じゃない。俺たちの、心だ」

「でも、夢だったんでしょう。賢者の石でなくしたものを取り戻す」

「俺たちの夢だけ叶えても、意味が無い」

「自分の夢よりも大事な事か」

「いつだってあるさ、自分よりも、夢よりも大事なもの」

このような罪を背負うには人間1人は小さすぎるし、国家レベルではあまりにも無機質で感情を捉えきれない。続く49話でエドワードは、赤ん坊が泣き喚くのは生き残るための言い訳なんかではないと説く。

母が排除される

wishの土台が崩される時、それでもwishのためにしてきた行動は消えない。物語にルールを与えてきた魔法が「消える」時にどうするか。等価交換という幻想を暴かれファンタジー世界から1921年のミュンヘンへ接続される『鋼の錬金術師』。お伽話のハッピーエンドのその後を描く『イントゥ・ザ・ウッズ』をどう接続していくかも見どころ。

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