Chisachi Blog

カイエ、もしくはスクラップ・ブック

猥褻と芸術

「猥褻とはなにか」「表現の自由とはなにか」といった文言はことあるごとに呼び出される問いである。

チャタレイ事件サド裁判、または千円札裁判を参照するまでもなく、猥褻性や芸術性が問われれる場面は多い。いや、多いというよりは常に問われていると言い直したほうがいい。問われない場面を想定する方が難しい。猥褻の定義は曖昧であり、その実態は時代によって変化する。それはわたしたちをとりまくメディア空間が日々変化しているからだ。性欲は本能的なものだから後天的に会得するメディア認識やメディア体験が全く無関係だと思っている人もいるだろうが、そういった立場は説得力に欠けると言わざるを得ない。実際はより複雑である。服や映像、絵画や演劇、「表現」と意識されていない日常の風景の混み入った事情から、多くの場合そのギャップとしてエロテッィクという感覚を分別していると考えられる。だから実際多くの人それぞれのエロには差異があるが、一方で最大公約数的に共有できる領域も存在する。この領域の変遷が先に挙げた裁判の判例として代表されているという訳だ。こういう考え方に則って記事を書いていく。

手続き的なレヴェルの話

とりあえず、基本的なところから確認していく。日本国憲法第21条によって表現の自由を規定し、刑法では特に174条や175条周辺においてわいせつに関する罪を規定している。ここでは簡単にしか触れないが、判例からは例えば「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義に反するもの」というように猥褻が定義されている。細かい部分に色々とツッコミどころはあるが、要するに「性欲を刺激するもの」を「みんな」へ向けることが罪とされているわけだ。

では何が「性欲を刺激するもの」なのか、なにをもって「みんな」とするかという話になる。勿論そんなものをいちいち議論するのは現実的ではない。露出魔を是としないならば、やはり公然わいせつのような概念を適用しなければならないし、その為には現場レベル(つまり警察機関)の基準が必要になってくる。それがつまり性器の視覚的直接表現というわけだ。性器の視覚的直接表現が猥褻だと規定されているわけではないが、判例から推測するに、「未知の事態」にはそのような基準で対応することがさしあたり問題となる確率が低いと考えられ、かつ有効に機能する確率が高いと考えられる境界だった。別の言葉でいうなら、ヒューリスティック評価のための指標であり、組織(それもハンコで動く公的機関)の取りうる合理的戦略ということに過ぎない。警察はそのようにしか振る舞えない組織だからそうしているのであって、猥褻を規定しているわけでも芸術性を評価しているわけでもない。

銭湯が公然わいせつとして禁止されないのは「未知の事態」ではないから、公然性や猥褻性への理解が共有されていると目されているからだろう。警察が性器の視覚的直接表現を基準にして動くのは、公然性、芸術性、猥褻性への評価ができない故の手続き的なレヴェルの話なのだ。

愛知県立美術館「これからの写真」展について

「これからの写真」展は、警察がまさに性器の視覚的直接表現を理由にその展示形態に介入したケースである。詳しくは色々な記事にまとめられているのでそちらを参照されたい。

愛知県美術館における鷹野隆大の作品展示について
撤去しなければ検挙するといわれ、やむなく展示変更となった愛知県美術館展示について写真家・鷹野隆大さんに聞く

簡単にまとめるならば、事前に弁護士と相談しゾーニングをしながらも性器の視覚的直接表現であるから撤去をしろと警察が指導してきたということになる。美術館という空間の公共性、それ自体が持つ芸術性への寄与、そして注意書きやゾーニングという要素を全く考慮していないのだ。先のリンク記事にもあるように、警察自身もそのことを自覚している。問題は次の後半部分だ。

警察は芸術性の判断には踏み込まない、陰茎が写っていれば一律アウトとするしかない

陰茎―さらに一般化して性器―が写っていれば法に触れ、一律アウトというのは端的に間違っている。基準を順守しようとして空回っている、敢えて言うなら警察がポンコツだったのだ。性器の露出・視覚的直接表現が本来は一律アウトであり、たまたま通報があったので看過できなくなったと思っているのかもしれないが、そのような規定は見たことがない。条文や判例がいかにも回りくどい文章で猥褻を表現しようとするのも、それを法のレヴェルで=性器の露出・視覚的直接表現と短絡することを避ける為ではないだろうか。ここでは法の解釈と現場の都合が混同されている。

しかし、このことを指摘できている意見は皆無だ。思想統制、ホモフォビア、反知性主義の蔓延という大雑把な反体制ストーリーの位相しか語られていないどころか、的外れなものも多い。そういった発信も必要には違いないが、問題を整理・解決するには遠回りであろう。一番多いのは行政と司法を混同した上で、公権力が芸術性を規定するのはけしからんというものだ。これまで述べてきたように警察は芸術性を判断しているつもりはないが、手続きを混同している。一方で美術の側に立つ立場からも芸術性について論じるべき場所で論じていない。後述のろくでなし子の件については本人以外に表現の意図以上のことを語ろうという人が皆無である。

鷹野隆大作品は“わいせつ物”か

美術手帖2014年11月号記載の土屋誠一「ポルノである、同時に、芸術でもある」では冒頭で美術館の意義について触れられているが「マイナーなものの排除」というよくわからない方向に回収されてしまった。ゲイポルノ的であろうとなかろうと、問題点を曖昧にしただけだと言わざるを得ない。

さらに問題を複雑にしているのは、愛知県立美術館が結果的に警察の指導を受け入れてしまったことにある。警察は作品の撤去を求めたが、要するに基準を厳守しようとするその指導は「性器の直接表現のある作品」の撤去に他ならない。実際は撤去ではなく展示変更で対応したというのが普通の見方だが、警察からすれば確かに「性器の直接表現のある作品」は撤去されたのだ。このことについて、警察と美術館側では認識に大きなズレがある。フィルムアート社『キュレーションの現在』の中で中村史子はこの展示変更について警察の介入の痕跡を残す機知に富んだ対応と述べているが、警察側は「してやられた」とも思っていないだろう。

この介入について警察に指導の撤回を求めるweb署名が集められたが、聞き入れられなかったようだ。警察からしてみれば既に「受け入れられた」指導を撤回する動機がまったくないから当然といえば当然だろう。基準に従って指導し、美術館側がその指導を受け入れたのだからどこにも問題はないように見える。ハンコで動く組織が既に通ってしまった案件をハンコなしで覆すはずがない。

はたまた、愛知県立美術館は敢えて展示変更を選んだのかもしれない。展示変更でなければ検挙すると言われてパニックになってしまうということも考えられるが、この検挙という言葉はそのまま逮捕を意味するわけではない。なにしろ事前に弁護士に展示形態を変更し、問題ないというお墨付きを貰っているのだ。その旨を伝えてもなお「陰茎が写っていれば一律アウトとするしかない」という頑なな返答に対してヒヨリすぎではないだろうか。ちゃんと突き詰めて判例を見て行きましょうとはならなかったのだろうか。弁護士の理論武装に対して現場の警察が常に優越するものだろうか。現場の警察官が美術館や判例に対して恐ろしく無知だった可能性の方が高く、むしろ然るべき場で争う方がよかったように思う。勿論これは所詮ひとごとだから言える、リスクを軽く評価した立場の意見かも知れない。後述のろくでなし子の件とは違い、愛知県立美術館で警察の指導があった段階では展示変更さえすれば無傷でいられる可能性が開かれている。さらには、警察の不当な介入は展示の良い宣伝にもなる。ある程度確実性のある選択肢とは対照的に、警察へ検挙されるというのは短期的には非常に大きな負荷に思えるだろう。長期的視野に立てばちゃんと争うべきだとしても、すぐにその後の見通しが立つ展示変更を選ぶ心境も理解はできる。

しかし結果的にこの件について然るべき場で争う機会は失われ、「美術館内の、更にゾーニングされた展示でも性器の視覚的直接表現には撤去指示が出せる」という前例を作ってしまったという側面も忘れてはならない。

ろくでなし子、2度の逮捕について

性器表現と猥褻性について、一方では逮捕された事件がある。それも2度も。

「ろくでなし子」事件、初公判は4月15日――女性器スキャンデータは「わいせつ」か

ろくでなし子の作品は猥褻でない女性器表現を模索しているように見える。そうでなければ、可愛かったり、カラフルで楽しいものにする必要はないからだ。そして猥褻でない性器表現は原理的に猥褻を前提とする。わからないのは、刑法175条の合憲性まで問うというところだ。こういうのは大きなこともとりあえず言ってみればアンカリング効果で本筋が些細なことに思え、主張が通りやすくなるという要するにハッタリに過ぎないのだろうが、主張そのものが矛盾してしまうのではないだろうか。猥褻な性器表現はありえるのかという点が曖昧になっている。

良くも悪くもろくでなし子作品はコミカルに留まっているが、「まんこちゃん」によって逮捕されたのではなく、モザイクに当たるノイズが充分でない性器の造形データ(プリントした時のサイズもおそらく問題点であろう)によって逮捕されたことに注目したい。

女性器の3Dスキャンデータについても、活用の仕方次第でもしかしたらポルノとして成立するかも知れない。しかしそれ自体で直ちに…と言われればそこまでは信じられない。

ろくでなし子の作品の芸術性については、美術批評家や批評家が「現時点では美術の本流にはいないがいつか評価されるかも知れない」という旨の発言をしている。つまり積極的な展開を避けているようだ。結局自分でない誰かが論じてくれるかも知れないと言っているに過ぎない。いかにも美術業界という感じで、表現の自由の擁護ひいては反権力的なポーズをとるためには重要な題材だが、道連れになって火傷はしたくないということではないだろうか。何が言いたいのかよくわからない。

https://twitter.com/shinkawa_takash/status/541531934149459968

46:象徴としてのわいせつ——ろくでなし子と赤瀬川原平

ならば、新しい東京五輪を控え、赤瀬川原平が死んだのと同じ年に奇しくも起きた今回の「模型女性器」による逮捕劇が、今日、赤瀬川の「模型千円札」がそうなっているように、やがて美術史的な価値を得ることがないとは、決して言えない。いやむしろ、後世が女性にとって、より開放的な社会になっていればいるほど、その可能性は高い。

お金がただの紙であることなんて当然だ。お金はただその信頼のみによって巡る。そうでなければハイパーインフレなんて起こらないだろう。最初から問われているのは何故信頼を寄せようと思うのか、猥褻なものは如何にして猥褻になるのかということなのだ。

付記

男と女両方を経験したテイレシアスは「男女の性感の差」を答えヘラに視力を奪われた。オイディプスは自ら目を刺し盲になったが、両者に共通するのは論理的探求者・観察者としての罪を背負ったことにある。ひとつの権利主体だと思いながら、それを脱構築する物語的真実に触れたが故に盲目となる。

男女の性感・性欲が完全に比較可能である―つまり、同軸上で評価できる―とすることはある種の世界観を崩壊させるかも知れない。しかし、全く想像しないわけにもいかない。過剰な一般化と、ブラックボックス化と、安易な相互性の織物を編み上げる。

男女(もしくはストレート/LGBTでもいい)の性感・性欲が非対称であって、消費可能性が非対称だとしても、法的な位相では平等である。その実態と織り合わせよりよい状態を実現するために議論を続けていく必要があるだろう。

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